イマドキ女子高生はどこだって

連日の雨はどこへやら、今日も晴天だ。

今朝は、繰り返される強日射と豪雨のコラボ攻撃に耐えしのぶ小さな野菜の苗たちを少し大きい鉢に植え替える作業をした。

今度、学校の生徒達と畑に植えるんだ。

 

日が高くなり、汗が噴き出す。

 

午後からは家の合鍵を作るため、首都の街へ出た。

同居人が来たので大家にスペアキーをもらおうと思ったら、

ないから作ってこいと言われたのだ。

スペアがないなんて、緊急事態が起きたときなんかどうするのだ

てか、それなら事前に教えといてくれよ。

なんて不満たらたらではあったが、

ここではそんなことでいちいちイライラしてられない。

 

活動先を出て、バスターミナルへ向かう。

たまには、と思い、売店でスナックを買った。

ある国発祥のかりんとうみたいな揚げ菓子だ。

1ドルで小さな封筒のような包みいっぱいに入れられた菓子を手に、首都へ向かうバスに乗り込んだ。

後方の空いている席に腰かけるとバスが走り出した。

 

平日の昼下がり。

比較的空いていた車内は、しばらくすると下校中の学生達で混み始めた。

ちょうど前の席に3人の高校生くらいの女の子達が座った。

ちりちりとカールした髪の毛を編み込みにし、後ろやサイドでまとめている。

 

きゃいきゃいと現地語でしゃべりながら、

外に向かって手を振ったり、別の座席の男の子に目配せしたり。

真ん中の子がごそごそと何かを取り出し、右側の子の目元にそれをあてた。

どうやらアイライナーのようだ。

ここの子たちは薄くあっさりした日本人の顔に比べて、

ずっと大きなぱっちりした目に濃いまつげを持つ。

こちらからすれば、すっぴんでも羨ましいほど目力があるのに、

さらにそれを強調しようとしているようだ。

右側の子が、どう?と聞く。

まだまだ、と真ん中の子はさらにラインを引く。

引き終わると真ん中の子が満足したように左側の子にその出来栄えを見せる。

またごそごそと何かを取り出した。次はファンデーションかな。

健康的な濃い色の肌にその粉をのせていく。

若くきめ細かいその肌はあまり変わってないようだが、彼女達は満足しているよう。

最後にピンク色のルージュをつけ、目的地に着いた彼女達は意気揚々とバスを降りていった。

 

その化粧は正直なところ全く似合っていなかったが、

女子高生の興味は世界共通なのだなぁと、なんだかとても微笑ましかった。

自分がそれくらいの年齢の頃はそういったものに興味がなく、

むしろ学校の規則を無視して着飾る同級生を疎ましく思っていたものだ。

年を重ねて寛容になったのか、この国の空気が穏やかな気持ちをつくるのか。

 

そういえば、ここに来て何もかもが珍しかった最初の頃、

バスに乗車中の様子を写真に撮って日本の友人に送った。

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窓がなく、なんとなく小汚い車内に、チリチリ頭が並ぶ。

写真が下手くそな私のセンスのかけらもないその一枚に対し、その友人は

「座席裏のラクガキはどこもいっしょだね」

と感想を述べてくれた。

あぁ、本当だなぁ。

と自分が撮った写真をしみじみと見直した。

 

気候も食べ物も気質も、

目に見える目立ったところはあんなにも違うのに、

こんなにも些細な部分にはたくさんの共通点が存在する。 

何もかもが違う。

だからこそ、小さな共通点につい反応してしまうのかな。

 

ひとつ気付いたことがある。

それは、年齢が若いほどに国や人種の差が小さくなるんじゃないか、ということ。

女子高生の生態とか、

座席やトンネルのラクガキだってきっと若者の仕業だろうし、

もっと小さな子ども達に至っては、

日本だろうが先進国だろうが途上国だろうが、その無邪気さは何も変わらない。

 

考えてみれば、何かとペースを乱されてイライラしてしまうのは、大人に対してばかりだ。

私はけっして子ども好きではないのだが、

ここで苦しいことや辛いことがあっても、子ども達と触れ合っていると癒される。

それはたぶん、

どこでも変わらないその姿に安心感を覚えているからなのかもしれない。

 

こう考えると、いかに外部の環境が人格や生活習慣の形成に影響しているかが知れる。

無色透明な状態にさまざまな文化や思考といったカラーが添加され、

大人になるにつれ、独自の色を持つようになる。

色=それは、過去の出来事や体験だとか、見たり聞いたりした記憶だとか、さらにそれらが融合してできたもののことで。

そして私自身にも自分の色があり、他人の色と調和不調和を起こしているのだなぁと。

 

純真無垢な無色透明がいいモノで、大人はずるく穢れている、とかいう話ではなく、

むしろ、この世界に多種多様な文化を創り出しているのは様々な色を持つ大人達だと思う。

そして子どもや若者は、周囲にあふれる色をどんどん吸収して大人になっていく。

 

また一方で、人は生きていくかぎり、

程度の差こそあれ、色は変化し続けるのだと思う。

もしかしてその国の多くの人々の色が変わったら、

良い悪いは別にして、国も変わるのだろうか。

 

女子高生からずいぶんと壮大な妄想に広がったもんだ。

まあなんというか、

人は他人の中に自分の色を見つけると嬉しくなるんじゃないかって話。

 

村の子どもやバスの中の女の子は、

これからどんな体験をして、どんなことを考えて、どんな色に染まっていくのか。

そして私も。