村の朝食

ボランティア仲間の友人が教えてくれたレシピの覚書。

 

彼は村の学校をその村にホームステイしながら巡回する先生ボランティアだ。

そんな彼が、ある山奥の村に行ったときに出された朝食のパンがとても美味しかったと、

彼の家に遊びに行ったときに、それをつくって振る舞ってくれた。

 

ココナッツミルクを使った蒸しパンのようなもので、

外側は水分を含んでぺたりと手にくっつくが、

割ってみると中身はふっくらもちもちとしている。

優しい甘さとココナッツの香りが絶妙だ。

 

材料:

小麦粉(強力粉がベター) ― 300gくらい

砂糖 ― カレースプーン1杯くらい

牛乳 ― 100ccくらい

ドライイースト ― ティースプーン1杯くらい

油(サラダ油、オリーブオイル、バター等なんでも) ― 大さじ1杯くらい

ココナッツミルク ― 適量 

作り方:

1.ボールに小麦粉・砂糖・ドライイーストを合わせる。

2.オイル・牛乳を加え、よく捏ねる。10分くらい。

3.ボールをラップで覆い、生地が約2倍に膨らむまで放置。

4.膨らんだ生地を軽く捏ね直し、適当な大きさにちぎって丸める。

5.鍋にオイル(分量外)を塗る。

6.鍋に丸めた生地を敷き詰めるように並べる。

7.生地がちょうど浸るくらいにココナッツミルクを注ぐ。

8.鍋に蓋をして弱火にかける。40分くらい。様子を見ながら時間は調節。

9.生地にしっかり火がとおり、ココナッツミルクがなくなればできあがり。

 

けっこう腹にたまる一品で、ひとつかふたつも食べれば満足だ。

お鍋ひとつあれば作れるところがありがたい。

もちろんオーブンで焼き上げても。

 

オーブンどころかガスもないその村では、

石で釜戸を組み、薪で火をおこして、このパンを蒸し上げる(茹で上げる?)のだそう。

ココナッツミルクも庭から採ってきた実を削り出して手搾りだ。

 

日の出とともに目覚め、手間ひまのかかった食事をのんびりと楽しむ。

都市部ではすっかり消えてしまった生活も、山の中では丁寧に営まれている。

 

帰国までにもう少し、そんな生活に触れておきたいなぁ。

満員バス~真夏のおしくらまんじゅう

いつも徒歩で通勤しているが、

今日は街で買い出しをしたので、バスで帰宅した。

メイン道路から外れた少し立地の悪い我が家の前まで行くバスは、相変わらず超満員だ。

 

近距離区間なら40~100円ほどで利用できるこの国のバス。

バスに乗れば大体どこにでも行けるほど、なかなか発達した交通手段だ。

ただ、メインの大きい道路を通るバス以外は1時間に1本が出る程度。

大きい道路から小道に逸れるとその先はかなり奥まで続いていることが多く、

そこにはたくさんの村があり、人が住んでいる

だから、少ない本数しかない小道をゆくバスは、常に満員となる。

 

こちらのバスのつくりは、窓にガラスはなく、ドアもない

雨の日は窓枠上部に取り付けられたシートをペロンと垂らすだけ

最近は窓付きのきれいなバスも増えてきたものの、基本はこのスタイルだ。

前方に乗降口があり、乗るときもしくは降りるときにドライバーにお金を渡す。

バスカード的なものもあるが、ほとんど普及しておらず、

たまに利用する人がいるかと思えば、機械の読み取りが恐ろしく遅い

 

シートは左側に2人掛け、右側に3人掛けが設置されている。

ただこのシートのサイズ、日本人がその通りに座っても肩がぶつかり合う広さ。

ここに体の大きい現地人がやってくると…

窮屈では済まないほどお互いに密着し合う

しかし彼らはおかまいなしに、2列シートには2人、3列シートには3人で腰かける。

 

加えて、本数の少ないバスの場合は通路に立つ乗客もいる。

この通路がまた狭い。人一人がようやく通れる程度。

通路側に座っていると、肩に容赦なく現地人のお尻がぶつかってくる。

車内が混み始め、座席に空きがなくなると、

この狭い通路にお尻と腹が出たおじさんたちが立ち並ぶ

座席からはシートに収まりきれないおばちゃんがはみ出している

まさに鮨詰め。

 

明らかに定員オーバー、いや、重量オーバーのバスは、

でこぼこ道を縦に揺れ、横に揺れ、そこそこスピードを出して走っていく

乗り心地は最悪だ。

卵を買って帰ったある日、その圧迫にやられて帰りついたら割れてしまっていたこともある。

卵、高いのに…

 

何度か東京でラッシュ時の満員電車に乗ったことがあるが、

密着度も体臭も、こっちの方が上回っていると思われる。揺れもすごい。

ただ、この東京の満員電車を経験したとき、

東京には絶対住めないと思ったものだが、

こっちの満員バスはそんなに悪くないと思うのだ。

 

ちっこい日本人が踏ん張っていれば、必ず席を譲られ、

重い荷物を持っている人がいれば、ここに置きなさいと声を掛け、

子どもの座る場所がなければ、誰の子でも構わず膝に抱え、

バスに乗り損ねそうになれば、乗客の誰かがベルを引いて止めてくれる。

 

そういった光景が当たり前に見ることができる。

 

東京の人間は冷たいとか、そういうのではなくて、

この国の人々のダイレクトなあたたかさは触れると本当に心地よい。

 

だからなのか、身動きがとれないほどに密着しても嫌な気持ちにならない。

むしろそこから伝わる高めの体温に、どことなく安心感を覚えるのだ。

 

たまに…

乗ってみたくなるのだ。

夏を知らせる甘いやつ

歩いていると、道端にはよく果物の皮が落ちている。

現地人は買ったりもいだりした果物を食べ食べ、道をゆったりと歩くのだ。

そして皮はぽいっとそこらに投げる。

ちなみにべたにバナナ率が高い

 

ただ、果物の皮ならともかく、

スナック等の袋も同じ感覚で捨てられているのは悲しいことだ。

もともと自然に帰るものばかりで生活していた彼らには、

自然には戻らない人工物に対する知識が備わっていない。

環境教育もこの国の大きな課題である…

 

とそれは今日は置いといて、

最近はバナナに代わって、赤みがかった緑色の果実の皮がそこらに捨てられている。

裏にはわずかにオレンジ色の果肉がくっついている。

マンゴーだ。

 

本格的な夏が巡ってくる頃、ここはマンゴーの季節になる。

マーケットには所狭しと数種類のマンゴーが並べられ、甘い香りが漂う。

マンゴーの木がある民家では、背が高く生い茂った枝からぶら下がる果実を落とそうと、

子ども達が懸命に棒を振るっている。 

 

 マンゴーの出回る季節は短い。

1ヶ月ちょっとも経てば、あっという間に姿を消す。

 

旬を楽しむ。

 

ここでの暮らしはそれを実践するのにうってつけだ。

欲しいときにいつでも手に入れることができない、というのは煩わしいこともあるが、

それほど重要な条件ではないのだとつくづく思う。

 

さて、マンゴーが流通し出してしばらく、

なんとなく買いそびれていたのだが、日本でそうそう食べられるものでもないからやはり食いだめておこうと、地元のマーケットに足を運んだ。

 

最も多く出回っているのが、グリーンの果皮のやや小ぶりのマンゴー。赤みを帯びているものも。

一見未熟だけれど、中身はきれいなオレンジ色に熟している。

若い実も酸味があってさわやかで美味しい。一盛り(4つくらい)で60円とか。

その次が、細長い形のやつ。ペリカンマンゴーっていうのかな。

繊維多めだけど、甘さと程良い酸味で美味。3つで60円くらい。

で、価格がこの二つの3倍以上するやつがある。実は大ぶりで一個単位で売られている。

種類はピーチマンゴーか何かだと聞いたけれど。

出荷量も限られているようで、あまり見掛けず、まだ食べたことはない。

が、ダントツで一番美味しいらしい。

 

小銭を握って汗だくでマーケットを物色。

あるある。売り場はほぼマンゴー一色だ。

まずはよく見る緑色のマンゴーを購入。

続いてあの大ぶりのマンゴーを発見。地方のマーケットなのに珍しいなぁ。

せっかくなので、ひとつだけ買ってみた。

高いけどね。食べてみたかったし。とは言っても日本じゃ破格のお値段だけれども。

 

さぁ帰ろうかと思っていると、緑色のマンゴー一盛りを半額で売ってるおばちゃんが。

商品は若干しなびていたが、猿酒にでもしてみようかと二盛り購入。

そしてま汗だくになりながら帰宅した。

 

先に半額マンゴーを仕込んでしまおうと、

シンクにそいつを広げると、しなびてるくせに甘い香りがいっちょまえに漂う。

皮を剥き、豪快に手搾りマンゴージュースをつくる。

もうこのまま飲みたい…衝動に駆られていると同居人が帰宅。

その手にはマンゴーが。

あー買ってたんだ―。ってお互い笑い合った。

 

その日の夕飯は同居人の地元家庭料理とマンゴー。

彼女の地元もまた南国。私も大好きな場所だ。

なつかしい味の夏ご飯とマンゴーは、暑さでくたびれた体に染みた。

ビール買ってくればよかった。

 

猿酒用に5個のマンゴーを消費した。

カウンターテーブルにはまだ、緑色のマンゴー9個と高級マンゴー1個が積まれている。

 

旬は美味しい。

体が夏に馴染んでいく。

国はひとつなれど

土曜日の午前中は街が最もにぎわう時間帯。

街中を見渡せば、チリチリアフロヘアーのおばちゃんが芋を売り、

観光中かと思われる白人がもの珍しそうに手作りの土産物を手に取り、

セール中の衣料品店内にはかの国の衣装を着たマネキンが展示され、

レストランではアジア人がでっかい鉄鍋をふるっている。

 

ここは多民族国家の国だ。

様々な人種がそれぞれの暮らしを営み、共存するところ。

中でもこの国の人口を大きく占めているのはある2つの民族

1つは昔からこの地に住む先住民族

1つは他の国の植民地であった時期に強制的に連れてこられた移住民族

少し前までは、この2つの民族の人口は拮抗していたのだが、

今は先住民族が半数以上を占め、移住民族は減りつつあるのだという。

 

この2つの民族は真逆と言っていいほど性質が違う

 

先住民族の特徴は、穏やかでルーズで小学生レベルの冗談で笑い転げるほど無邪気。

計画性がなく、なんでもシェアをする。

争いごとを嫌い、あまり意見や自分の考えを言いたがらない。

体は縦にも横にも大きく、運動神経がいい。

 

対して移住民族は、きっちりしていて意見や要求をはっきりと言う。

商才に長け、服でも家でも外観の良さを大事にする。

愛想はあまりいいとは言えないが、家族でも友人でも、自分の身内を大事にする。

女性も男性も若い人はスリムで手足が長いが、

年齢を重ねると細いままの人と太る人にわかれる。

 

ざっと挙げるとこんなところか。

加えて、言語も宗教も食文化もなにもかもに共通点が見当たらない

 

そして…

彼らの関係はあまりよくない。

昔に比べれば緩和しているものの、彼らはお互いにその存在を疎んでいる。

別に誰もはっきりとそういうことを口には出さない。

しかし、職場で、街で、学校で、

あらゆる場面で彼らの間にがあることを感じさせられる。

 

この国の法律は、改定がかなり進んでいるとはいえ、

まだまだ先住民を優遇したものになっている。

土地は全て先住民に所有権があるから、

彼ら(移住民)は先住民から土地を借りて商売をして生活をするしかない。

 

先住民たちは移住民は本国へ帰るべきだと考えている。

移住民の方もおそらくそうしたいと思っている。が、できないのだ。

長年この地にいたせいで、本国とも民族性が変わってしまっており、

きっと帰ったところで居場所はないだろう。

 

無理やり連れてこられた移住民たちに対し、先住民は国に帰れという。

土地も与えられず、

店を経営するときは必ず先住民を雇うことを条件付けられている(らしい)。

 

一方で、移住民の特有ともいえるその強い性格は先住民の和を乱す。

のんびりとしていた街は商店であふれかえり、

南国の雰囲気にそぐわないギラギラした装飾の看板が立ち並ぶ。

余所の土地で生き抜くため、彼らは何よりも金銭の損得を優先し、ぎすぎすとした雰囲気をつくり出す。 

 

どちらが悪いわけでもない。

どちらも被害者だ。

 

文頭で、現在では移住民族の数が減りつつあると述べた。

これは、もともと商才のある移住民族の勢力が経済発展を武器に徐々に強くなり、

その力がそれまで先住民が握っていた政権にも及び始め、

自分たちの国が乗っ取られると恐れた先住民がクーデターを起こしたことが主な原因である。

最後に起きたクーデターは十年も経たない前の出来事だ。

 

歴史的背景や社会情勢うんぬんは考え出すとまとまらないし、切りがない。

何より、話の方向性が暗くなるばかりだ。

しかし一方で、当たり前のことではあるが、

過去の辛い時代やよくない出来事は、

この国独特の文化や雰囲気、面白さを作り上げている要素でもある。

 

場所によって、

民族の割合が、聞こえてくる言語が、町並みが、BGMが、スーパーの品ぞろえが…変わる。

山奥へ行けば、昔ながらの生活を送る先住民が伝統的な儀式で客人を迎え入れ、

移住民ばかりで構成された地域では、まるで彼らの本国へ迷い込んだかのような錯覚を覚える。

 

両民族のぶつかり合いが今も続くのは、それぞれが自分達に誇りを持っているからであり、

そんな状況だからこそ、

異民族カップルを見ると、なぜか心の中で応援してしまうし、

移住民の伝統衣装を着た先住民のおばちゃんが「似合う?」と話しかけてくれば、

渾身のグッドサインをしてしまうし、

移住民が先住民の伝統的な儀式で飲まれる嗜好品を自分達の文化だと言い張れば、

思わず微笑んで頷いてしまうのだ。

 

ある2つのモノが別々の軌道に乗って動いているとして、

その軌道上に接点はなく、それらは一生出会うことはない。

…はずだったが、外部からの圧力で軌道が変わり、ある時点でそれらは衝突してしまう。

それらを待ち受ける運命は融合か、消滅か。

 

たぶん、ここはそんな国だ。

 

衝突した2つの文化は、一部は融合し、一部は衝撃で飛び散った。

融合した塊は不均一で不均衡で、でも決して再び離れることはなく。

融合にともなって、消滅した部分もあるだろう。

だけど、きっとどこかで、

飛び散った小さな破片達が消えることなく、細々と本来の姿も残しているのだ。

 

ちなみに…

融合した塊の中心部に位置するものは、個人的には食文化だと思っている。

美味しいもの楽しいことに対して人は皆、寛容である。

 

今日も小腹を空かせた先住民たちがその大きい体を揺らし、

移住民店主のかまえる売店で揚げ菓子を買い求めている。

イマドキ女子高生はどこだって

連日の雨はどこへやら、今日も晴天だ。

今朝は、繰り返される強日射と豪雨のコラボ攻撃に耐えしのぶ小さな野菜の苗たちを少し大きい鉢に植え替える作業をした。

今度、学校の生徒達と畑に植えるんだ。

 

日が高くなり、汗が噴き出す。

 

午後からは家の合鍵を作るため、首都の街へ出た。

同居人が来たので大家にスペアキーをもらおうと思ったら、

ないから作ってこいと言われたのだ。

スペアがないなんて、緊急事態が起きたときなんかどうするのだ

てか、それなら事前に教えといてくれよ。

なんて不満たらたらではあったが、

ここではそんなことでいちいちイライラしてられない。

 

活動先を出て、バスターミナルへ向かう。

たまには、と思い、売店でスナックを買った。

ある国発祥のかりんとうみたいな揚げ菓子だ。

1ドルで小さな封筒のような包みいっぱいに入れられた菓子を手に、首都へ向かうバスに乗り込んだ。

後方の空いている席に腰かけるとバスが走り出した。

 

平日の昼下がり。

比較的空いていた車内は、しばらくすると下校中の学生達で混み始めた。

ちょうど前の席に3人の高校生くらいの女の子達が座った。

ちりちりとカールした髪の毛を編み込みにし、後ろやサイドでまとめている。

 

きゃいきゃいと現地語でしゃべりながら、

外に向かって手を振ったり、別の座席の男の子に目配せしたり。

真ん中の子がごそごそと何かを取り出し、右側の子の目元にそれをあてた。

どうやらアイライナーのようだ。

ここの子たちは薄くあっさりした日本人の顔に比べて、

ずっと大きなぱっちりした目に濃いまつげを持つ。

こちらからすれば、すっぴんでも羨ましいほど目力があるのに、

さらにそれを強調しようとしているようだ。

右側の子が、どう?と聞く。

まだまだ、と真ん中の子はさらにラインを引く。

引き終わると真ん中の子が満足したように左側の子にその出来栄えを見せる。

またごそごそと何かを取り出した。次はファンデーションかな。

健康的な濃い色の肌にその粉をのせていく。

若くきめ細かいその肌はあまり変わってないようだが、彼女達は満足しているよう。

最後にピンク色のルージュをつけ、目的地に着いた彼女達は意気揚々とバスを降りていった。

 

その化粧は正直なところ全く似合っていなかったが、

女子高生の興味は世界共通なのだなぁと、なんだかとても微笑ましかった。

自分がそれくらいの年齢の頃はそういったものに興味がなく、

むしろ学校の規則を無視して着飾る同級生を疎ましく思っていたものだ。

年を重ねて寛容になったのか、この国の空気が穏やかな気持ちをつくるのか。

 

そういえば、ここに来て何もかもが珍しかった最初の頃、

バスに乗車中の様子を写真に撮って日本の友人に送った。

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窓がなく、なんとなく小汚い車内に、チリチリ頭が並ぶ。

写真が下手くそな私のセンスのかけらもないその一枚に対し、その友人は

「座席裏のラクガキはどこもいっしょだね」

と感想を述べてくれた。

あぁ、本当だなぁ。

と自分が撮った写真をしみじみと見直した。

 

気候も食べ物も気質も、

目に見える目立ったところはあんなにも違うのに、

こんなにも些細な部分にはたくさんの共通点が存在する。 

何もかもが違う。

だからこそ、小さな共通点につい反応してしまうのかな。

 

ひとつ気付いたことがある。

それは、年齢が若いほどに国や人種の差が小さくなるんじゃないか、ということ。

女子高生の生態とか、

座席やトンネルのラクガキだってきっと若者の仕業だろうし、

もっと小さな子ども達に至っては、

日本だろうが先進国だろうが途上国だろうが、その無邪気さは何も変わらない。

 

考えてみれば、何かとペースを乱されてイライラしてしまうのは、大人に対してばかりだ。

私はけっして子ども好きではないのだが、

ここで苦しいことや辛いことがあっても、子ども達と触れ合っていると癒される。

それはたぶん、

どこでも変わらないその姿に安心感を覚えているからなのかもしれない。

 

こう考えると、いかに外部の環境が人格や生活習慣の形成に影響しているかが知れる。

無色透明な状態にさまざまな文化や思考といったカラーが添加され、

大人になるにつれ、独自の色を持つようになる。

色=それは、過去の出来事や体験だとか、見たり聞いたりした記憶だとか、さらにそれらが融合してできたもののことで。

そして私自身にも自分の色があり、他人の色と調和不調和を起こしているのだなぁと。

 

純真無垢な無色透明がいいモノで、大人はずるく穢れている、とかいう話ではなく、

むしろ、この世界に多種多様な文化を創り出しているのは様々な色を持つ大人達だと思う。

そして子どもや若者は、周囲にあふれる色をどんどん吸収して大人になっていく。

 

また一方で、人は生きていくかぎり、

程度の差こそあれ、色は変化し続けるのだと思う。

もしかしてその国の多くの人々の色が変わったら、

良い悪いは別にして、国も変わるのだろうか。

 

女子高生からずいぶんと壮大な妄想に広がったもんだ。

まあなんというか、

人は他人の中に自分の色を見つけると嬉しくなるんじゃないかって話。

 

村の子どもやバスの中の女の子は、

これからどんな体験をして、どんなことを考えて、どんな色に染まっていくのか。

そして私も。

ライフライン事情あれこれ

夏時間を採用しているこの国。

先日から通常より1時間早まった日々が始まった。

そのためいつもと同じ時刻に帰宅しても、日はまだ高い。暑い。

 

今日も汗だくになって帰宅すると、郵便受けに封筒が入っていた。

郵便受けといっても、この国では郵便物を各家庭に配達するシステムはなく

普通は郵便局の横に自分用のポストを設けるか、宛先を職場にして送ってもらうかする。

では、我が家の玄関横の郵便受けに入っていたものは何か。

これは公共料金の請求書だ。大家が入れたものだろう。

 

この国は発展途上国とは言われるけども、ライフラインはそれなりに整っている

電気と水道は日本と同じようにそれぞれの会社と契約して毎月利用分の料金を支払い、

ガスは近場にあるガスを扱っている商店やガソリンスタンドからシリンダーを購入し、空になったら交換をしに行く。

それぞれの料金は電気は高く、ガスはまあ安いほうで、水道は激安だ。

 

電気と水道に関しては、利用料金を計算するために係りの人が各家庭のメーターをチェックするようになっている。

ただ…これがとてもいい加減なのである

というのも、毎回正しい金額を提示するためには、きちんと毎月メーターをチェックしなければならない。

が、毎月メーターを調べるためにいちいち各家庭を周るなんて面倒くさいのだ。

そりゃそうだ。誰だってそんな手間のかかることは面倒くさい。

そしてこの国では…

面倒くさければときどきサボってもかまわないのである

 

では、サボった月の利用料金はどうするのか?

推定するのである。

適当に係りの人が自分の感覚でその月の利用料金を決める

エスティメイトビルだかプライスだかという言葉があり、それをそう呼ぶそうだ。

それは、こんないい加減な公共料金の請求が認められている、ということを意味している。

だから、今月はけっこう使ったなー、と思っても請求金額はそうでもなかったり、

留守がちにしててほとんど使ってないはずの月でも高額な請求がきたり、

なんてしょっちゅうである。

 

先ほどの郵便受けに入っていたものは電力会社からの請求書であった。

実は、ここ数カ月の間、私は電気料金を支払っていない

たぶん今月も支払う必要はないだろう。

内容をチェックすると…そこには相場よりちょっと高めの金額が記されていた。

 

しかし、これにはカラクリがあり、

オンラインで改めて今月の利用料金を問い合わせると、案の定、こんな返事が返ってきた。

 

「あなたの今月の利用料金は “-○○ドル” です。今月は支払いの必要はありません。」

 

“-○○ドル”

マイナスって何さ?

私、発電してんの?

 

事の始まりはいつもの3倍以上の額の請求が届いたことだった。

請求書の紙の方にはマイナス記号が書かれない。

だから「なんでこんなに高いんだ?」とかなり焦り、

考えても腑に落ちなかったので、

大家に原因を尋ねるもわからず、会社に問い合わせてみろと。

(ちなみにこの大家、過去に自分とこの電気料金をごまかして借用主に払わせていた前科がある)

電話は自信がなかったので電力会社にメールで問い合わせ。

そして、会社から帰ってきた返事がこのマイナス記号のくっついた利用料金であった。

 

なんでも、過去に過払いしていたらしく(おそらく過払いしていたのは前の住民だろう)、

それが今、利用料金をそこから差し引くことで帳尻を合わせているようなのだ。

私にとってはラッキーなのかもしれないが、過払いしていた前の住人は…

 

そして最近、ボランティア仲間のある友人が、

こういった会社の雑な管理によるトラブルの餌食となってしまった。

彼の住む地域はもともと断水になることが多い。

そしてその日も断水になったそうだ。が、いつまでたっても回復しない。

痺れを切らした彼が水道会社に電話すると…

 

なんと、断水ではなく、水を止められていたそうだ。

その理由が「2009年から支払いがなかったから」

 

え?

いや、今、2014年ですけど?

もうすぐ2015年なりますけど?

 

その友人はそこに住み始めてまだ4ヶ月ほどである。

5年も放置していたのは会社側のミスで、

その帳尻合わせに今の住民を巻き込むのはあんまりな話である。

しかも彼いわく、請求されたアカウントの番号が明らかに違うらしい

加えて、その金額を聞いてちょっと計算してみたところ、

いくら水道代が激安とはいえ5年分ともなればけっこな額にはなるだろうが、

それでもあまりにも高いのである

いい加減すぎる…

 

対応のひどさに怒った彼は、

会社のトップの方の人に直談判をし、会社にミスを認めさせ、

3日で水道を復旧させることに成功したのであった。

 

そんな事件が解決した後、

よくよく詳しい話を聞いてみると、

実は支払われていなかったのは10年前からだったとか、

請求書はお隣さんのものだったとか、

この事件は会社の溜まりに溜まった未清算の数字を一気に見直したために起こったもので、

他にも巻き込まれた家庭が何件もあるとか、

ネタは満載である。

 

もしこんなことが自分の身に振りかかったら、きっと彼のようには動けない。

と思うと…

問題対応力をもっと磨かなければ、

とじわじわとこの国のペースに呑まれている自分を省みるのである。

 

余談だが、この国の水道管は古く、整備が追いついていないそうで、

供給される約7割の水が漏れているそうである。

 

残りの期間、どうか平穏に暮らせますよう。

サンデーナイトメンタル

雨が多く、曇りがちな空。

そのどんよりした天気は夏の日差しを遮り、

だけど暑さと紫外線はそのままに、

南国らしからぬ風景をつくりだす。

そしてときどき、はっとする景色を見せてくれる。

 

今日はそんな日だった。

 

週末、ちょっと遠出して、楽しんだけれど少し疲れて帰りのバスに乗りこんだ。

明日からまた平日だぁ、なんて思いながら、

売店で購入したパンをかじり、バスに揺られ。

 

平日だって、日本に比べれば、

ずっとずっとスローなゆとりだらけの日々なのに、

やっぱり休みって恋しくなる。

 

隣に座ったおばちゃんの大きなお尻に耐えながら、

自宅へ続く小道の入り口で下車をする。

そこから自宅まで徒歩15分。

アスファルトの代わりに砂利が敷かれたこの小道は、

晴れれば砂埃が舞い、雨に濡れれば泥道と化する。

 

バスに乗り込んだときは晴れていた。そして今も。

けど、砂利が程良く湿っているのか、埃はたってなく、

真っ直ぐな一本道の向こうの方までよく見える。

きっとお昼頃にひと雨あったのだろう。

 

日曜日の終わりを感じながら空を見ると、

真っ青ではないけれど、

すぅっと細く薄い雲と、その隙間から見える青い空がきれいなグラデーションをつくっていた。

 

なんとなく得した気持ちで家に着き、

先週から一緒に住み始めた同居人に「ただいま」と声をかけた。

2日間放置していたプランターのイチゴと裏の花壇のハーブの水やりに行くと、土が湿っている。

同居人が水をあげていてくれた。

まだまだ小さいのに、イチゴが赤くなり始めている。

活動先の現地人から苗をもらったときに言われた。

「ここのイチゴはどうも甘くならないんだ。」

 

冷たいシャワーで汗を流し、溜まった洗濯物の処理にとりかかる。

たらいに水をはり、洗剤を入れて手で揉み、押し、汚れを落とす。

新しく買った柔軟剤のにおいがきつくて、思わず顔をしかめたけれど、

しっかり洗い流したら仄かな香りになった。

 

手搾りで水の滴る洗濯物を干しに外に出ると、日がもうすぐ落ちようとしていた。

相変わらず雲の多い空だったけれど、その色がとってもきれいなオレンジ色で。

夕日は見えなかったけれど、夕焼けをバックに何本も立ち並ぶヤシの木がまた見事で。

ああ、うちから見える景色ってこんなによかったんだなぁ。

 

家に入ると同居人がリビングで本を読んでいる。

薄い壁の向こうに住む、現地人ファミリーのお隣さんからは、

ウクレレの音と、それに合わせてハウスガールのおばちゃんの歌声が聞こえる。

静かな夜だ。

 

こんな日は、なんだか自分が何かの物語の中心にいるような気になる。

明日はまた雨が降るだろう。